小さい頃からアメリカに住んでるから英語ネイティブなれ・・・ません!
こんにちわ。 皆様の健やかな呼吸を守る、呼吸療法士のYokoです。
プロフィールでも触れていますが、私はアメリカ在住歴20年なのに英語が苦手です。
特に英語で話す際、いまだに緊張して吃音が出たりします。
父の転勤に伴って、アメリカに家族移で住したのが1999年でした。ノストラダムスの予言はハズレ、人類は滅亡せず、2000年という新しい節目を迎える中、私は言語と文化の壁に大いにぶつかっていました。
両親は渡米後、良かれと思って私を現地校に通わせました。
日本では小学6年生でしたが、アメリカの教育システムは小学5年、中学3年、高校が4年制のため、気づいたら中学生からスタートしました。(事情があって小学校も2ヶ月だけ通いましたが、即卒業)
そんな小さな頃から生の英語を学べる環境にいたら、さぞ流暢なバイリンガルなんですね〜と良く羨ましがられますが、大間違いです。今でも日本語で喋る方が楽ですし、英語もネイティブではなく日本語訛りのアクセントがあります。大和魂最高。
英語をマスターする近道として、映画やアニメを字幕なしで鑑賞をする方法がありますが、私にはまったく合いませんでした。当時のは私は(良く言えば)年の割には大人びていました。つまり、生意気で、可愛げのない、冷めた子供でした。
当時流行り始めたポケモンの英語バージョンの声に違和感を感じて見る気が失せたり、子供向けの番組Sponge bobやNikelodeonなど何が面白いのか理解できず「アメリカ人って単純」と馬鹿にしていましたクソガキでした。もっと無邪気に楽しんで見られていたら・・・と今でも思います。
家ではもちろん日本語で会話しますし、駐在ファミリー繋がりで知り合った同世代の友達も日本語で会話していました。
唯一、英語に触れる機会は、放り込まれた現地校でした。
これが当時の私にはキツかった。
アメリカ学校あるあるなのか、中学校から全てにおいてハードモードになるんですよ。ゼロピリオドの存在(早朝クラス)、カリキュラムの組み方、クラスごとの教室移動、課題の多さ、授業の難易度、求められる自己管理、複雑になっていく人間関係・・・英語力ゼロの子供には無理ゲーでした。
今でも覚えてるのが、生物学の時間で「Cell」について勉強することになった時です。もちろん、「Cell」なんて単語使ったことないので、電子辞書(Google先生なんていないからね!)で調べても、「小室、細胞、独房」としか出てこなくて、日本語でも意味がわからず、勉強どころじゃなかったです。
体育系の部活に入ればよかったのですが、唯一好きだったバスケでは、背が小さいアジア人の出番全くなしの空気の中にぐいぐい出る勇気がなかったです。元々内向的な性格もあって、家で本や漫画を読んだりするのが好きだったので、積極的に英語圏の人たちと触れ合う機会を設けようとはせず、バイリンガルからの道から遠ざかっていくのみ・・・
ちょうど多感な時期もあって、些細なことで凹んだりしていました。先生が出席確認際、自分の名前を呼ばれたら「Here」か「Present」と軽く言うのですが、これが嫌でした。どっちも日本人が苦手とするR発音が入っていて、もちろん私は綺麗に発音することができずに、周りからクスクス笑われました。10代の子供って残酷だぜ・・・。
でも、親に変な心配をかけたくなくて、少ない日本人友達から仲間はずれされたくなくて、毎日なんとか学校に通っていました。でも、授業ではぼーっとするだけ。
全てにおいて、出だしからマイナススタートなのに、親は「そのうち英語がわかるから大丈夫!」とポジティブ思考でした。
「そのうち英語がわかるなら、何もしなくていいか」と特に深く考えずに学校に通っていました。無理に頑張らなくても、ある日突然英語がわかるようになって全て上手くいく!と、夢見ていました。かなりアホな子です。
現実と向き合わないまま、英語が喋れない劣等感を抱えながら、気づかないうちにストレスを溜まらせてしまったのです。
今振り返ると、鬱になっていたんだと思います。
ある朝、体が動かなくて、布団から出れずにいました。母が叩き起こしにきても、父が仕事を休んで説得しにきても、学校に行く気になれませんでした。
「日本で可愛いセーラー服来て学校に通いたい」
「日本語が喋りたい」
「日本へ帰して」
そんなことを喚きながら登校拒否しました。
メンタルヘルスという概念がなかった当時は、誰もが日本へ帰りたがる私の扱いに困っていました。
駐在員で、大黒柱で、昭和気質の父は、私だけのために帰国することは許されませんでした。
妥協案として、週末に日本語補習校に通わせてもらうことになったり、英語上達のために家庭教師をつけてもらったりしましたが、英語を学ぶ気が全く起きませんでした。特に、家庭教師とソリが合わなくて、一年もしないうちに辞めさせてしまいました(申し訳ない)。その後は、公文教室に通ったりしましたが、これも一年続いたかどうか。
そんな中で、日本語補習校は中学卒業までちゃんと行きました。高等部も通いたかったのですが、場所が少し遠く、送迎の負担が大きいから無理があると母に言われ、断念しました。駐在員だから近いうちに日本へ帰国するだろうと楽観していたので、そんなに補習校については執着しませんでした。
お金をかけた割には、大して英語上達しないままダラダラと毎日を過ごしていたら、あっという間に高校生になってしまいました。
私は、「いかに英語を喋らないで済むか」を考えた結果、高校ではマーチングバンド部に入りました。
すごい幼稚で不純な動機で入部しましたが、これがかえって良かったです。
マーチングバンド部では、無理に英語が喋らなくても音楽を通じてチームワークを築くことができるし、人と適度に交流ができるし、体も動かせることができて、私のメンタルヘルスケアになりました。
高校3年生の終わりぐらいになると、周りが大学進学について気にするようになったので(中には飛び級でさっさと大学進学したスーパー生徒もいます。尊敬しかない。)、親にいつ日本へ帰るのか聞いたことがありました。赴任期間が伸びるかもしれない、いやもしかしたら中国へ転勤するかも、日本へ帰るとしても受験することになるから今からだと遅い、など言われ、ショックを受けました。
ここで啖呵を切って、帰国子女枠で日本の大学へ行けば良かったのですが・・・母が倒れてしまってそんなことを言い出せる状況じゃなくなりました。
私よりもっと英語ができない母は、ナースやドクターが病室に来る度に、よく私に通訳を求めました。
「痛み止めがもっと欲しい」
「お隣の人の声が大きいから、どうにかして欲しい」
「いつ退院できるのか」
「お風呂に入りたい」
「Malignant tumorってどういう意味?」
親子揃って、英語で日常会話すら危ういのに、専門的な医学用語が飛び交う病院は不安でしかありませんでした。
紆余曲折を経て、そんな不安でしかない病院が職場になりました。
人生、何があるかわかりませんね。
で、結局、英語喋れるんでしょ?
いいえ。20年以上もアメリカに住んでいますが、自信を持って英語がネイティブレベルだとは言えません。こんな長々と日本語を書いていますが、日本語もネイティブレベルだと思いません。
知らない単語もたくさんあります。使ったことのない表現もあります。TOEICを受けたことがありません。スペルミスは常にあります。文法をよく理解していません。英文を解読するのに人より時間がかかります。いまだに日本語訛りのアクセントが強すぎて、通じない時も多々あります。緊張のあまり吃音が出て、相手に不快感を与える時もあります。英語での談笑の輪に入れなくて疎外感を感じることもあります。日系アメリカ人と結婚しましたが、家では絶賛日本語オンリーです。
私にとっては英語は単なるコミュニケーションツール。
スマホと一緒で、使いこなせればスゴイ能率は上がるだろうけど、必要最低限のことさえできればそこまでのツール。英語も、ある程度の意思疎通ができればネイティブスピーカーに拘らなくても良いかな、と20年後になってようやく開き直ってます。
でも、頑固な子供の頃とは違うのは、英語を敵視することをやめました。
自分の言いたいことを言えなかった時の悔しさ、恥ずかしさ、挫折感に負けず、焦らずに、少しずつ失敗から学ぶのが、私にとって一番あった英語勉強法です。素直が一番。
(もちろん、巷の英語上達教育法に喧嘩を売るつもりはないです!)
もし、英語で困っている方がこの記事を読んでいたら、少しアドバイスを。
英語を無理に好きになる必要はありませんし、周りの人たちと比較しなくて良いです。
どうしても比べたくなったら、是非とも私を参考にしてください。
どうか、ご自分なりに英語というコミュニケーションツールを使いこなしてください。
それでは、日本人呼吸療法士、明日からもアメリカで頑張って命救ってきます!
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